受け継がれる志

創業者髙本善四郎が、思い描いた理想への
「原点回帰」。

2017年、ダイトロングループ3社は統合し、
“販売”と“製造”の2つの機能を併せ持つ
新しい会社への道を歩み始めました。

ダイトロンは、さらなる「未来」を創ります。

髙本善四郎の志

ダイトロンの基盤に根付くのは
60年以上も前、
ダイトロン創業時に髙本が抱いた、
小さな、熱い想い。
髙本善四郎の志

少年時代から
憧れた海外貿易

少年時代から 憧れた海外貿易

創業者、髙本善四郎は、1911年京都府舞鶴生まれ。舞鶴は戦前、東アジア各地と定期航路で結ばれた国際交易港であった。物心つくころから大陸の息吹をあびて育った髙本は、少年時代から「海外貿易」に憧れ、東京商科大学(現:一橋大学)に進学し、英語、簿記・会計、商法、貿易等、将来必要となる知識や技能を身に付けた。
大学卒業後、「海外貿易」の夢を実現すべく、東京を本拠に産業機械等を取り扱う中堅商社に入社。戦前、商社といえば、三井物産と三菱商事が有名だったが、「鶏口となるも、牛後となるなかれ」の心意気で、その会社を選んだという。

日本の復興を
手助けする
「科学に役立つ」
技術を。

日本の復興を手助けする「科学に役立つ」技術を。

時は経て、太平洋戦争が始まり、中国大陸で仕事に従事している中、「赤紙」が舞い込み、現地応召された。敗戦後、中国に残留し続ける部隊内部で、よく仲間と話し合った。「これから、どう生きるべきか。日本はアメリカに負けた。アメリカの科学技術に負けた。だから我々が日本に帰ったら、何よりも科学技術振興をしないといけない。科学に役立つことがやれれば、面白いだろうな」戦後、たとえ小さくとも、貿易をやりたい。それも単なる金儲けではなく、日本の復興を手助けする「科学に役立つ」事業を、と考えた。

“工”を超える
”商”へ。

“工”を超える”商”へ。

兵役に就くまで中国大陸での主な取引先は日本の軍需省や軍関係の会社で、そこでは「おい、商人。お前らは士農工商の一番最低の階級だ」と罵倒されることもしばしばだった。髙本は密かに発憤した。「なんとかして“商”よりひとつ上の“工”、物づくりをやらなければ…」サービス部門をつくり、技術屋が集まれば、物をつくる力も付き、新たな注文も来るに違いない。将来、自分で事業を始めるなら、物づくりを基本にしたい、と。

敗戦後の大阪にて、つてを頼って個人事業を始めた。1948年頃には、個人事業と会社勤めを兼務し開業資金を貯める余裕も生まれた。ある時、進駐軍の駐屯地売店でみたアメリカの週刊誌のあるページに目をとめた。そこには、これまで見たことのないテープレコーダーの写真と記事が載っており、科学技術情報に飢えていた髙本は、夢中になって記事を読んだ。朝鮮戦争勃発の中、「不況」と「特需景気」のはさまで、新聞で、東京通信工業株式会社(現:ソニー株式会社)が日本初のテープレコーダーを開発・発売することを新聞で知った髙本は、「これだ!」と意気込んだ。「こんなユニークな製品なら、きっと売れる」

信用・信頼は
誠実なアフター
フォローから

信用・信頼は 誠実なアフター フォローから

髙本は、好機到来と個人事業の取扱商品として東京通信工業製のテープレコーダーを何台かずつ仕入れ、大阪周辺の学校や放送局に出入りしはじめた。1952年大阪市に「大都商事株式会社」を設立。設立3年目頃には、得意先も増え、テープレコーダーの販売も軌道に乗り始めた。と同時に部品の取り換えや修理の必要度も増える。営業中心だった当社もサービス部門の充実を図る必要性に迫られた。企業への信用、信頼は、誠実なアフターフォローがあってこそ。戦時中、“商”から“工”への夢を抱いた髙本の技術志向の第一歩といえるかもしれない。

ダイトロンの今までを見る